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スタログ:批判は何でないか(現代倫理学)

批判という営みは、単に学問の世界だけでなく、日常の社会生活においてもすべての人の共通の営みになっている。

ところが今日の誰もがつくづく経験していることは、「人々が意見を述べ合うところには何か『否定の亡霊』みたいなものが暴れまわり、その結果、ただ怒号と力だけが支配して、結局は惨憺たるむなしさの思いをかみしめて終わる」、ということではないだろうか。

 

そしてこのような光景を目にするとき、我々は批判をしているつもりであっても、それらは果たして批判という営みに値しているのか、批判はそんなに簡単にしうるものなのか、そもそも批判とはどういうことなのか、という疑問がわいてくる。

そこで批判という営みを際立たせるために、批判と似通った言葉で表される営みで実は批判ではない営みを取り上げて、批判とは何でないかを明らかにしておきたい。

 

①批判は批評ではない

批評とは、物事の良しあしを論じて品定めをすることである。

批評のもっとも本質的な点は、批評する者はあくまで第三者の世界にとどまっていながら、しかもその根本的な関心事は、その世界の自分のことにはなく他人の世界の他人の事柄にあるという点である。

批評は、相手の世界に少しも介入することなく、それの自由を侵さない紳士的態度に通ずる性格を持っているように見える。

しかし、実は批評は相手に対し、自分の世界から無責任な饒舌をふりまくことによって、相手を無責任な抽象的饒舌の世界に引き入れるという侵犯を行っている。

 

②批判は非難ではない

非とは、悪いこと、罪過、欠点という意味である。したがって非難とは、非をなじること、過を責めることである。

つまり、ある人が何事かを為したとき、その行為の過や欠点をなじり、その人自身を責めることである。

もちろん、非難は、妥当な場合もあれば、そうではない場合もある。にもかかわらず、非難には何かしら不吉なものが感じられる。

それは、他人の世界への異様な仕方での介入、すなわち、自分はあくまで第三者のとどまっておりながら、そのままの状態で他人の世界に介入していること、しかもそれは、その相手に対して断定という型を取っていることである。

断定とは、いかにそれが妥当であっても、相手の存在に対する一つの支配であり、全面的ではないにせよ相手の世界に対する一つの占領である。

そして、多くの場合非難は自分の手を汚さないで自分の正しさを立証するだけに終わるものである。

 

③批判は否定ではない

否定とは、その対象存在そのものを認めない態度、その存在そのものを拒絶し、その存在の余地なからしめることであり、要するに相手の存在を抹殺する営みである。

すなわち、否定には、非難の場合以上に、その判断や行動に絶対性が支配している点に特徴がある。

我々日本人の間には、その精神史と国民性の故か、批判と否定を同義に解している性向が目立つ。

この批判という営みにおいても、いな、これにおいてこそ、その根本的な関心事は、自分に対してではなく、他人の事柄にあるということが注目される。