https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/86_jiseiroku/index.html
解説:岸見一郎
死との向き合い方
>あらゆるものは本性的に死ぬものである。
>死は出生と同じく自然の神秘である。
「自然に一致して生きる」ことを実践することが幸福につながる
「生」も「死」も自然の現象
「生まれること」を悲しまないのと同じように「死ぬこと」も悲しまず、恐れることもない
アウレリウスは何とか割り切ろうとしたのかもしれない
別れが必ず悲しみだけを伴うとは限らない
「死」と積極的に向き合う=「今、ここを生きる」
>たとえお前が三千年生きながらえるとしても三万年生きながらえるとしても、覚えておけ。
> 何人も今生きている生以外の生を失うのではないこと、今失う生以外の生を生きるのではないことを。
> だから、もっとも長い生、もっとも短い生も同じことだ。
> 今はすべての人に等しく、したがって失われるものも等しい。
> かくて、失われるものはつかの間のことであることは明らかだ。
> 過去と未来のことを失うことはできないからである。
> 持っていないものをどうして彼から奪うことができるだろうか。
過去はどこにもない
未来は不確かなものでしかない
過去の失敗を悔やんでも時間は戻せない
未来を思い悩んでも明日何が起こるかわからない
束の間の「今だけを生きる」
人生を直線的に考えない
点として今の連続としてとらえている
"今のこの現実"から始めるしかない
先のことを備えすぎていまするべきことを見失っている
>すべての行為を生の最後の行為のように行う。
今は将来のための準備期間ではない
子どもに「目当てを持って将来のために頑張れ」というのはどうなんだろうか…
今が本番でリハーサルではない
(本来的には)勉強も今が楽しい
受験勉強も知らないことを学ぶということでは喜びのはずだが…
生きる喜びのための勉強のはずが本末転倒になっている
『後々の(来るかどうかわからない)得体のしれない苦しみから解放されるための勉強』になってしまっている
大学に入れたら人間は幸せになれるかというと、必ずしもそうではない
大学に入れなかったからといって不幸になるわけでもない
善悪無記:あらゆる事物はそれ自体では善でも悪でもない(→第3回)
丁寧に生きる
人間はだれでも失敗する
あの時最善の決断をしたと思えば自分を許せる
>人格の完全とは毎日を最後の日のように過ごし、激することなく、無気力にもならず、偽善もしないこと。
自暴自棄、無気力にならず虚勢も張らない
平気なふりをしなくていい、「怖い」といえばいい
>すでに死んでしまった者のように、今までに生を終えてしまった者のように、今後の人生を自然に即し余得として生きなければならない。
余得として生きる
自分が一人で生きているわけではないということを知る
生かされている
何らかの形で与えていくような生き方をしたい
人は一人では幸福になれない
>神々を敬え。
>人々を救え。
>人生は短い。
>地上の生の唯一の収穫は、敬虔な態度と共同体のための行為である。
人間は皆、同じロゴスを持つ同類
個人が幸福のために行動することは、他者とともに幸福になろうとすること
>枝は隣の枝から切り離されたら、木全体からも切り離されないわけにはいかない。
> まさにそのように、人間も一人の人間から引き離されたら、共同体全体から離脱することになる。
> ところで、枝は別の者が切り離すが、人間は隣人を憎みを背けることで、自分で自分を隣人から分離する。
> しかし、同時に共同体からも自分を切り離してしまうことになるのを知らない。
共同体=人と人とのつながり
「私とあなた」が共同体の最小単位
人類すべてが幸福になることを目指す
他者のために生きていく(ロゴス=自然)
死者もまた生きている我々に貢献している(例:自省録を読むことができる)
「共同体のために行為しない」という選択肢はそもそも人間にはない
他者を切り捨てたら結局自分が切り捨てられる
コスモポリタニズム(世界市民主義)
国家という単位を超えた共同体
自国だけよければいいというのではない
理想を掲げることに意味がある
理想を掲げているからその理想に一歩でも二歩でも近づける
「できない」ってわかっていても言う力は必要
理想は未来にあるのではなく「ここ」にある
今を生きる指針
何かを達成しないと他者に貢献できないわけではない
今こうやってここで生きていることがそのまま他者に貢献している
#哲学 #自省録 #マルクス・アウレリウス #ストア派