雑考レポート(メイキング①)

妄想がたまってきたのでそれをまとめるためにつらつらと吐き出していきます。

内容的には「多様性」「寛容」を自分なりにとらえ直しどのように扱うか(主に教育において)です。

流れとして、「社会・集団」→「個と多」→「枠と数」→「教育・ケア」になる予定。

細かいところにはあまりこだわらず、大きくざっくりと進めていきます。

論理の飛躍があっても、またいずれ考えるといった感じですっ飛ばしていきます。


①社会・集団・個人・普通、そのあたりについての雑考

図1.正規分布的俯瞰

図2.図1の3Dモデル


「普通」の位置
なんとなく「普通」というものについて考えてみたらこんな仮説が降りてきた、という感じです。


とらえどころのない「普通」というものはどこにあるのだろうか?
この問い自体もいいかどうかはわかりません。
「そもそも『普通』はあるのか?」
というところからが正しいのかもしれませんが、とりあえずは世間一般で言われているところの「普通」にフォーカスしその存在位置を図にしてみた感じです。


きれいな円ではなく波線でゆらいでる感じを出したいし、軸のラベルもどうするかという問題、できれば3Dグラフィックな感じで表現したいです。
まぁ、大体の部分は表現できているのでひとまずはOK。

この図は未完というかそもそもこれでいいのかはまだわからないけど、たたき台として書いておく。

「普通」=多数派幻想

いい・悪いという話ではない(強調しておかないと誤解されそうなので…)

「普通」というもの(幻想?)に振り回されている。()
振り回されることによる弊害は?(あちこちあるだろうがそれはまだまとまり切っていないorz)
集団圧力、自己責任、排除、いじめ、自己否定、不寛容、…
左手で相手の首を絞めながら右手で自分の首も絞めてないだろうか。

社会全体で見たときの分布は正規分布となる。
その正規分布の中央付近が「普通」の位置である。
外部には社会規範の壁がある。
社会規範は大体法律と同じであるが、その時の社会的文脈によって変化する。

ただし、その境界はあいまいで社会的文脈の中で大きくなったり小さくなったりする。
また人と人、環境など外因によってブラウン運動のように個人の動きはランダムになる。(あるいは量子的といったほうがいいのか。)
それゆえ個人側の変化によっても常に「普通」に入ったり出たりをしている。
ただし、たいていの個人には「普通への意識」が存在し分布にかかわらず「自分は普通」だと思っている。