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読書メモ:心配学③

・定量的な評価が苦手

お金のやり取りはしょっちゅうしているので、非常に身近で数字の評価にも慣れているはずです。

一方、リスクに関する数字はあまり身近ではありません。

100万円といわれれば、それで何ができるのかのイメージは沸きやすいですが、100万分の一の確率といわれても、その数字の意味が直感的には分かりません。

そして、確率が小さいためty苦節経験できる人もほとんどいませんし、毎日経験することもできません。

だから、確率がすごく小さいことは分かるのですが、心配しなければいけないのか、それとも無視していいのかがよくわかりません。

 

私たちが感じるリスクの幅は、現実のリスクの幅よりも少し狭いことが知られています。

リスクが比較的高い喫煙や交通事故などに対しては、実際よりも低めに、リスクが比較的低い飛行機事故のようなものに対しては、実際よりも高めに感じる性質があるようです。

宝くじなども、なんとなく当たるような気になることもあります。

 

・性能が上がると心配が増える

検出技術の向上によって、以前には検出できなかったような微量なものまで検出できるようになりました。

しかし、私たちは定量的評価が苦手なので、含まれていること自体を問題にしようとしてしまいます。

それがどのくらいの量なのか、その値がどんな意味を持っているのか、ということはあまり考えません。

 

・経験や知識が認知をゆがめる

経験は未来をなんとなく予測するのには役立ちますが、未来が例外的であった場合には予測を見誤る原因にもなってしまいます。(錯視図形などがその例)

大人になるにつれて、知っておくべきことが増えてくるので、自身が経験した直接的な情報より、他人を経由した情報のほうが多くなります。

報道で世の中を知ることは、典型的な間接的情報取得です。

間接的情報は、中継する人によって取捨選択されており、情報の頻度と実際の発生頻度にはずれがあります。

しかし、私たちの多くはそのことに気づかず、ニュースを見て「最近殺人事件が多いわねえ」などと思ってしまうのです。

 

・いつも論理的な人はいない。でもなぜ、自分は論理的だと勘違いするのか?

私たちの考えていることのほんの一部は、客観的で理性的なのかもしれません。

でも、残りの大部分は感情的・直感的な判断に頼っているというのが実情です。

脳の進化の歴史から、感情的・直感的である脳の中心は、論理的で理性的な脳の外側よりもずっと「先輩」なのです。

先輩である感情的・直感的処理は無意識に行われ、考える労力が小さく、ずっと高速です。

一方、論理的・理性的な処理は意識的に行われ、労力が大きく、低速です。

 

私たちは怠け者なので、「考えなくても済むことはなるべく考えないようにしよう」という性質を持っています。

それが、論理的に、正確に「危なさ」をとらえることの妨げになることもあります。

よくあるのが、内容いかんではなく、誰が発信したかにもとづいて情報の信頼性を判断することです。

「テレビでいってたから本当だろう」「頭にいい〇〇さんが言っていたから本当だろう」という判断をしがちです。

ほとんどの場合、少し大げさに表現されたマスコミや声の大きい人たちによる情報もそのまま信じてしまうのです

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