・日本の「批判」
日本語における「批判」は、元来、臣下から上奏される奏文に対して宰相が意見を加えることからきている。
したがってこの言葉の背後には、身分の上下、主従関係が前提をなしており、批判は、上が下に対してなすものである。
このことは日本人の感情に大きな影響を及ぼしてきたように感じられる。
つまり、批判するということは、自分を相手より「上」の地位につけることになるので、傲慢不遜なことであり、良くないことである、という感情である。
そのため日本では「批判」は慎むべきことであり、日常化してこなかった。
この観点から考えると、批判という営みは、少なくとも日本文化の特産ではなく、ヨーロッパ文化の特産なのではないだろうか。
・ヨーロッパの「批判」
ヨーロッパの言葉としての批判(criticism, Kritik, critique)の語源は、危機と同じギリシャ語の Krinein 、そしてその中の「清掃する、純化する、浄化する」という意味から来ている。(参照:「危機」の由来)
そしてここから、
「清掃するなど」→「分ける」→「分析(区別と整理)」
ように発展していく。
分析の目的は、対象の本質を明らかにすることにある。
そこでここに一つ問題が起こってくる。
それは、その区分や整理の仕方を誤るとかえって対象の本質は不明になってくるので、区分や整理の仕方自体が問題になってくる。
つまり、妥当な仕方とそうでないしかたの区別が必要になる。そしてこの作業も分析となる。
このように、批判は、対象そのものに関する営みと、同時にその対象を扱う扱い方、つまり、方法に関する営みとを含んでいる。
こうして、古代ギリシアの哲学者たち、特にプラトンによって、「批判」は分析と総合という営みになり、哲学や諸科学の中心的な方法となっていった。
さらに近世になりカントが批判という言葉に哲学独自の意味を与えることに大きな寄与をした。
カントは、理性によって理性それ自らの認識能力を問いただすということをした。
それはいわば、理性による理性自らの批判、つまり、理性の自己批判であり、これが批判という言葉で呼ばれたのである。
こうしてこれ以後、哲学における批判とは、知識の前提を問うということと同義語になった。
・「批判」の意味
①批判とは、真理、あるいは真なる知識を得るために、それを「真ならざるもの」から「分ける」「区別する」ことである。
しかし、人間の思考がさらに深まってくると、「真なる知識」と「真ならざる知識」に区別されたものが曖昧なものであることがわかってくる。
そこで、それらの知識そのものを検討してみる必要が出てくる。
②批判とは、知識の前提を問う営みである。
まず、帰省の知識の審議、それの前提を問うという形で始まる。
その際に重要な問題は「知っていること(分かっていること)」と「知らないこと(分かっていないこと)」の区別をはっきりつけることである。
しかし、この区別を推し進めていくと、両者の区別自体が非常に曖昧なことがわかってきて、「知るとは何か(分かるとは何か)」という問いの中に落ちていく。
つまり「知識」そのものを問う営み、知識が知識自信を問うところまで深まざるをえないようになる。
③批判とは、問うている自己自身を問うことへと通じている営みであると同時に、その自己自身を問うということが根底、根幹をなしている営みである。
批判の最も深く進んだ形態は、文化批判と呼ばれる批判である。
文化批判は、現実の生の固定化に対する反動の行動としてあらわれる。
そのためしばしば文化批判の名において文化を客体化し対象化し、これを否定もしくは破壊するような行動形式がとられることがあるが、これは決して批判の名に値しない。
文化とは、それの中で人間が息づいているものであると同時に、まさに人間の内部でこそ息づいているものだからである。
したがって、文化の中における人間の自己批判を通じてのみ文化は内部から深く批判されることになる。
このように見てきたとき、批判は、批評、非難、否定とは全く異なるものであることがわかる。(参照:批判は何でないか)
批評、非難、否定の場合は、根本的な関心事が他人の事柄なのに対して、批判の場合は自分にあるという点である。
ここで明らかにしておきたい問題がある。
それは、批判という営みが、とかく否定の営みへと転化し、さらに空無へと風化しやすいという点である。
とりわけ今日の時代的状況ではそうではないだろうか。
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