· 

「学校との距離感を調整すという発想」

抜粋してもしきれないぐらいメチャクチャ共感しました!

消えてしまう前にメモです!

 

『平日昼間に開かれる「森の教室」に子どもたちが集まるワケ』

https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20210306-00225870/?fbclid=IwAR3ZoZ6KB1rRRyr4pBymCa1lABzU2zexwYaIr87bJsO8z9-EiavrQkLCCfI

~~~

「教室」という呼称は誤解を招くかもしれない。イモニイが何かを教えてくれるわけではないからだ。なんとなく集まってみんなでわいわい騒いで、なんとなく解散する。

大人たちは一切の指図をしない。なかなか火がつけられなくても、竹がうまく切れなくても、求められない限り手出しもしない。足を滑らせれば怪我をするであろう崖に子どもたちが登っても、まわりの大人は何も言わない。実際、足を滑らせて意図せず川にドボンする子どももいる。子どもも大人もみんな笑う。落ちた子も、つられて笑う。いもいもでは、失敗は「おいしい」。

いちいち小言を言わなくていい環境を整えたうえで子どもに最大限の自由を与えると、大人が働きかけなくても子どもは自らを教育し始めるとモンテッソーリは考えた。逆に、子どもがやる気をなくしたり、問題行動を起こしたりするのは、環境のどこかに原因があるからだととらえる。
また、モンテッソーリ教育では教室の中に用意された教具が子どもたちの興味関心を引きつけるようにできているが、森の教室では自然の中にあるあらゆるものが子どもたちの自発性を刺激するという点も似ている。

「本当に下品だと思うのは、キャンプに行って森に入っていって、たとえば昆虫に興味を持ってほしいみたいな発想。海辺に行って海の生物に関心を持ってほしいとか。そこで興味や関心を示さないと、そういう大人は怒るんだよね。はっきり言ってこれ、幼児わいせつみたいでしょう。『ちょっとおいで。おじちゃんがいいこと教えてあげようか』みたいな。子どもが望んでいるわけでもないのに大人の満足に子どもを付き合わせているという点で、同じでしょ」
せっかく自然の中に連れて行ったのに子どもが期待したとおりの活動をしないと、つい「いまの子どもたちは元気がない……」などと嘆いてしまう大人も少なくない。でも私の感覚ではそんなの、勝手な子どもとしてあるべき姿を押しつけているだけだ。

「子どもが変わる必要なんてないんですよ。成長なんて考えなくていい。そのままですごいんだから。ありのままの子どもたちの振る舞いを見て、僕は毎回感動します」

イモニイもそのまわりの大人たちも、「良い/悪い」をジャッジしない。そもそもいもいもには「目的」がない。「子どもたちが思わずプルッとする瞬間」を追求しているだけだ。

学校では子どもたちのあるべき姿が示される。大人たちからの要望を察知して自主的にそこを目指せる子にはいいが、自発性が豊かなためにそこに強い抵抗を感じる子どもにはつらい。自主性と自発性は似て非なるものである。

学校よりも森の教室のほうが教育システムとして優れていると言うつもりもない。同じ次元で比較できるものではないし、そもそも完璧な教育システムなんてありえない。

代わりに私がいま思い描くのは、家庭があり、地域社会があり、学校があり、学童や児童館があり、習い事や塾があり、「いもいも」のような環境があり、そのときの感覚で子どもたちが自由に居場所を選べるモザイク模様の教育文化をもつ社会だ。

~~~