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状況倫理学①

友人から下の記事の紹介があり、「状況倫理学」というものを思い出したのでまとめようと思います。

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『「なぜ道徳的であるべきか?」――永井均『倫理とは何か』(ちくま学芸文庫、2011年)より 』

https://note.com/free_will/n/nf359715e76cd

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■状況倫理学誕生の背景と時代の精神状況
・一般に倫理的判断や善悪の観念というものは、人間の行為の仕方や態度の取り方における本質的区別とかかわりを持っている
 ・この区別の根拠および基準がなんであるかを探求するのが倫理学の課題
 ・無道徳主義や倫理的懐疑主義は、このような区別もしくはその基準が存することを認めない立場
・善悪の観念なしには反抗という一つの態度決定は成り立ちえない
 ・人が既成の「道徳」に反対して「反道徳」の立場をとる場合
  ・外見上あたかも道徳の権威を認めない態度のように思われる
  ・しかし本当は、権威を認めないのではなく、かえって権威の存在を認めているからこそ、それ見むかって反抗を企てる
 ・権威が存在してはじめて権威の否定も意味をもつものになる
 ・反道徳(インモラリティ)は無道徳(アモラリティ)とは全く異質の立場
・現代の若者の反抗(本書は1978年)
 ・倫理学観点から見れば、人間の行為や態度の中に存在する本質的区分そのものの否定でというようなものではない
 ・区別の根拠および基準をどこに求めるかという問題をめぐる伝統的な考え方との対立をあらわにしていると考えられる
・『現代の精神的状況』(1931、カール・ヤスパース)
 ・「いまや、たしかに、一つの意識が広がっている、すなわち—何もかももう駄目だ、疑問でないものは何一つない、ほんものだという確証あるものは何もない、イデオロギーによって瞞しあったり自己欺瞞をやったりしているなかで依然として存続するものといえば限りない渦巻だけだ、という意識が。」
 ・この懐疑と絶望の声は、すでに久しく現代西欧の思想や文化のうちでさまざまな形をとって響き続けている
 ・いわば輝かしい現代西欧文明の最深部に潜む危機意識の表明
 ・このような意識は、ヒューマニズムの賛歌(人間の偉大さ、人類の限りない進歩、自然に対する理性の支配の無限の拡大…などの信念)とは著しい対照をなすもの
 ・今日の科学的産業文明はヨーロッパ近代における人間主義と合理主義に支えられて発展
 ・ヤスパースの指摘した懐疑的意識は、この文明を生み出した主体としての人間自身に対する根本からの問い直しをわれわれに迫っているように思われえる
・懐疑的意識の根底にあるもの
 ・デカルトの有名な命題「われ考う、ゆえにわれ在り」以来近代思想の大前提であり近代人の常識でもある人間観に対する疑問
 ・人間を端的に「思考するもの」と規定することに対する異議申し立て
 ・近代的人間観のもとでは人間存在がその本質においてもっぱら思考作用を営む認識“主観”としてのみ把握され、認識対象(“客観”)から切り離された抽象的活動以上の意義を与えられていないという不満に由来
 ・主観と客観の厳密な分離が近代科学の方法を可能にした
 ・しかし、主観と客観の分裂は人間と他の存在者、人間と自然、人間と世界という対立の枠組みを超えて、人間存在それ自体の統一性を内部から破壊し解体させるデモーニッシュ(超自然的な力が感じられるさま。悪魔的。)な力にまで成長してとどまることを知らない
 ・合理性の名のもとに人間存在を一方で無色透明な認識論的主観に替え、他方で世界内の他の事物と並ぶ認識対象へと凝固させてしまうような傾向に対して深刻な憂慮と懸念が示されるようになったのも当然の成り行き
 ・近代の教養人にとってあまりにも自明な、自己の理想でもあり拠り所でもあった合理性の理念そのものに問い直しを迫るという意味で、「危機的」な意識と呼ぶことができる
・状況倫理学
 ・危機意識を媒介として人間存在それ自体の内的分裂を克服し、その統一性と全体性を回復しようとする種々の試みの一つ
 ・具体的状況の中におかれた現実の人間の存在(実存)を拠り所として人間の問題を考え直そうとする思想的文化的潮流
 ・倫理学の問題を理性的人格の行為一般という抽象的次元で考えるのではない
 ・状況内存在としての具体的人間に対してそのつど突きつけられてくる「いま・ここで何を行うべきか?」という個別的で代替不可能な問いを扱うことによってのみ、倫理学は現実の生きた人間に対するその本来の使命を果たすことができるという確信
 ・人間はこのような問いの担い手としてのみ、単なる主観でも客観でもない行為主体としての統一性と全体性を保持しうると考えられる


慶応義塾大学『現代倫理学の諸問題』より「状況倫理学」のまとめ